この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第4章 江戸篇
戊辰戦争
(1868年/慶応4年)
です。
要点
- 戊辰戦争とは、明治新政府軍と旧幕府軍の一連の戦い
- 天下を二分するような内乱へ発展せずにすんだのは慶喜の功績
- 明治維新は西洋やシナのような「革命ではない」
解説
戊辰戦争とは、王政復古後に樹立した明治政府と旧幕府軍とが戦った日本の内戦です。明治2年(1868年)1月の「鳥羽・伏見の戦い」から、明治3年(1869年)5月に終結した「箱館戦争」までの一連の戦いの総称です。
明治政府軍の中核は、明治維新の立役者である薩摩・長州で兵力は約5,000。一方の旧幕府軍はおよそ15,000といわれ、数のうえでは新政府軍は劣勢でした。さらに軍備面でも、設立間もない新政府軍は十分とはいえず、軍艦もほとんどありませんでした。
しかし新政府軍は天皇を奉じる官軍の証でもある「錦の御旗」を掲げることができたため、幕府軍の士気は大いに削がれました。
徳川幕府最後の将軍、慶喜は水戸の出身です。水戸藩は光圀以来尊王思想が強く、「官軍」と戦うことを好みませんでした。これが結果として内乱を早期に収束させることができた大きな一因となったのです。
そのことを明治の元勲たちはよく理解していました。だからこそ、戊辰戦争終結後まもなく慶喜は許され、晩年には公爵に列せられました。
革命に匹敵するような、抜本的な政権交代が行われたにもかかわらず、新体制の明治政府は旧体制の徳川幕府トップの慶喜を、処刑するどころかその功績を讃えているのです。シナの易姓革命では、必ず旧体制の実力者たちはことごとく処刑されるのが常です。また西洋でも、例えばフランス革命などはアンシャンレジーム側であるルイ16世を処刑しています。
慶喜以外にも、旧幕府軍に組みした側への処遇は穏便なものでした。以下に一例をあげてみましょう。
貞明皇后(大正天皇のお后)は、秩父宮雍仁親王に旧会津藩から勢津子妃を迎えました。昭和天皇以外の弟君にも、朝敵側から嫁を迎えるように取り図られました。
こうした計らいがなかったら、戊辰戦争終結後も新政府側と朝敵側の藩(県)との間で見えない壁が生まれ、日本としての一体感が生まれなかったかもしれません。
戦った敵のことも許し、大きな心で包み込む。そんな印象を受けますね。