この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第3章 戦国篇
文禄の役(朝鮮出兵)
(1592年/文禄元年)
です。
要点
- 秀吉による最初の朝鮮出兵
- 元々の目的は明への侵攻だった
- 快進撃を続けたが補給不足で撤退
解説
文禄の役は、文禄元年(1592年)に秀吉が命じた朝鮮出兵のことです。
秀吉は、天下を取る前から大陸に関心があったと言われています。天下統一を果たした秀吉は、満を持して明への侵攻を計画します。明を攻めるには朝鮮を通る必要があるため、朝鮮と話をつけるため、またついでに自身の天下統一に対しての祝を述べさせるために、朝鮮へ使いを出しました。
しかし、朝鮮通信使が来朝したものの、中身は天下統一の祝の言葉だけで朝鮮を通ることへの許可らしきものは含まれていませんでした。
秀吉は結局、それ以上朝鮮側と交渉することはせず、朝鮮出兵の命令を下します。
朝鮮に上陸した日本軍は快進撃を続けます。日本の進軍のあまりの速さに、明では朝鮮に内通者がいるのではないかと疑ったほどでした。
非常に強かった日本軍ですが、唯一水軍だけが弱点でした。当時は水軍といっても輸送船団程度にしか認識されておらず、指揮官すら不在といった有様でした。
釜山から上陸し平壌まで進軍したはいいものの、食料を補給する船が朝鮮の水軍に阻まれなかなかやってこないため、兵士たちの士気が落ち始めました。さらに朝鮮の冬に備えた用意も十分に備えていなく、疫病も流行し、毛利輝元など有力武将も病に伏すまでになりました。
そんな状態の中、李如松率いる明軍が総攻撃をしかけてきました。平壌城に立てこもる小西行長軍は、3倍の敵の攻撃に耐えきれず城を放棄して逃げました。
その後、京城に集結した日本軍は、敵を碧蹄館で待ち受け、鉄砲の一斉射撃戦術などを駆使して明軍を撃退しました。これが「碧蹄館の戦い」といいます。
しかし兵糧もなく、負傷者も増え士気が下がっていた日本軍にはもはや戦いを継続するだけの気力は残っていませんでした。。そこで石田三成・小早川隆景ほか全大名の署名入りで撤退を催促する手紙を秀吉に送る事態になりました。その結果日本軍は、出兵から1年足らずで撤退することになったのです。