この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第2章 中世篇
足利高氏の反乱
(1335年/建武2年)
です。
要点
- 関東で挙兵した北条時行討伐のため出陣
- 新田義貞と対立
- 持明院統の光厳上皇を担ぎ「官軍」となる
解説
建武の中興以降、力をつけていったのが足利尊氏と新田義貞です。足利氏も新田氏も、その系図は源氏であり、家柄の良い家系です。
足利尊氏は、建武2年(1335年)に関東で挙兵した北条時行を討つために鎌倉へ出陣します。その際、朝廷に「征夷大将軍」の位と東国(関東地域)の管領券を要求しましたが許可されませんでした。そこで尊氏は勝手に「征夷大将軍」を名乗り、許可なく出陣し、時行を打ち破りました。
その後、尊氏は鎌倉で勝手に論功行賞をはじめました。これは、関東を基盤としていた新田義貞の力を削ぐ意図がありました。
一方の新田義貞は、畿内にある尊氏の土地を取り上げます。結果、足利尊氏と新田義貞の対立は決定的なものとなりました。
当初、新田義貞が官軍で、足利尊氏が朝敵でした。そして緒戦は官軍の新田氏が優勢でした。
この時尊氏は、日本での戦では「錦の御旗」、つまり天皇を担いで官軍とならなければ勝てないことを悟ります。
当時、皇室は大覚寺統と持明院統に分かれていた時代だったため、「建武の中興」以来不遇な立場に置かれていた持明院統の光厳上皇に使いを送り、自分たちが官軍であることを示す院宣をもらうことに成功します。
かくして尊氏側も「官軍」となり、のちの南北朝並立の遠因となりました。