日本史 読書ノート

大日本帝国憲法発布/「首相」も「内閣」も存在しない"不磨の大典"が昭和の悲劇を生んだ

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第5章 明治篇
大日本帝国憲法発布
(1889年/明治22年)
です。

要点

  • 憲法制定の最大の理由は不平等条約の解消
  • プロイセン王国の憲法を参考に作られた
  • 首相や内閣の規定がない点が、昭和の悲劇を生んだ

解説

明治22年(1889年)、大日本帝国憲法が発布されました。憲法制定の背景には、当時国民の間に起こっていた自由民権運動に答えるためも一因ですが、最大の理由は諸外国との不平等条約の解消にありました。

明治維新時、日本は諸外国から近代的な国家とはみなされておらず、諸外国は治外法権を有していました。つまり、外国人が日本でなにかトラブルに遭遇した場合、日本の法律によって裁くことができないということです。

万が一自国民が日本でトラブルに遭遇したとき、未熟な国の法律によって裁かれるわけにはいかないというのが理由でしたが、不平等極まりない条約です。

日本が近代的な法治国家であると諸外国に認めさせるには、法体系の根幹である憲法を制定しなければならない。そう考え、初代内閣総理大臣になる伊藤博文は欧州に渡って憲法調査を行いました。

伊藤は当時、世界一の憲法学者であったドイツ・ベルリン大学のグナイストに助言を求めに行きました。そしてグナイストは伊藤に、プロイセン王国の憲法を参考にするよう助言しました。

なぜ、ドイツ帝国憲法ではなく、旧プロイセン王国の憲法だったのでしょうか。それは、ドイツは小国家を統一して生まれた連合国家のため、単一民族で成り立っている日本の参考にはならないと考えたからです。

ヨーロッパでは、「皇帝」には成り上がれるが、「国王」にはなれません。それはナポレオンが皇帝にはなれたけれどフランス国王にはなれなかったことからも分かります。

日本に置き換えると、天皇は国王であり、一朝一夕に成り上がった権力者ではありません。その点を理解していたからこそグナイストは、プロイセン"王国"の憲法を参考にすべきと助言したのでした。

一方、大日本帝国憲法には後の世の人たちから見ると致命的な欠陥がありました。それは、首相や内閣の規定が存在しない点です。

この欠陥を見抜いた昭和の軍部が暴走することになります。つまり、我々軍人は天皇直属であって政府の命令に従う必要はない、という理屈を持ち出すことになったのです。その結果、政府は軍を掌握できなくなってしまうのです。

ではなぜ、大日本帝国憲法には首相も内閣も規定が存在しなかったのでしょうか?もちろん、内閣自体は存在していて、憲法より4年前に内閣制度が制定されています。

おそらく、憲法制定時はまだ、旧幕府の存在感が強かったため、天皇の権力が弱まる、あるいは分散するかのように見えるため首相や内閣の規定を盛り込まなかったのではないかと思われます。

さらに、天皇の信頼あつい元勲たちが次期内閣の首班を指名する決まりになっていました。当時の感覚からすれば元勲たちが選んだということはすなわち天皇が選んだというのに等しく、その決定に大臣や軍部が逆らうことは考えられなかったために、大きな問題にはなりませんでした。

そして最も致命的な点が、大日本帝国憲法が「不磨の大典」として扱われてしまった点です。本来、憲法というものは時代にあわせて修正を加えていくべきもので、大日本帝国憲法にも改正のための条項はありました。にもかかわらず、不磨の大典として改正をタブー視してしまったがために、欠陥は見直されることはありませんでした。

この問題は現在の日本国憲法にも、同じことがいえるのではないでしょうか。

所感

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