この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第5章 明治篇
西南戦争勃発
(1877年/明治10年)
です。
要点
- 西郷を担いだ士族による反乱
- 新政府軍は素人集団だったが、徹底的な物量作成で鎮圧した
- 西南戦争経験者が日清・日露戦争を戦い勝利に導いた
解説
西南戦争とは、西郷隆盛を担ぎ薩摩を中心とした士族たちが、新政府に対して反乱を起こした内乱です。
ただ、西郷自身は積極的に反乱を起こしたわけではなく、むしろ極力反乱を抑えようと努力していました。それでも一度周囲から担ぎ上げられれば地獄まで乗ってやろうという腹を持った人だったので、西南戦争のときには首領の地位につきました。
当時の新政府軍は、町人百姓あがりが多く、訓練もほとんどしていないような素人集団でした。そのため緒戦は薩摩の武士たちを相手にまったく歯が立たちませんでした。新政府軍が拠点としていた熊本城はあっという間に薩摩軍に方位されてしまいました。
しかし、ここで薩摩軍は戦略上致命的なミスを犯してしまいます。熊本城陥落にこだわりすぎたのです。加藤清正が築城した熊本城は天下の名城であり、そう簡単に陥ちる城ではありませんでした。
そうこうしている間に新政府軍の援軍が本州から上陸し、逆に薩摩軍を包囲することになりました。
西南戦争の勝敗を分けたのは結局、物量と補給力の差でした。
戦闘能力では戦いのプロである薩摩軍のほうが上でしたが、政府軍は兵員にしても武器弾薬にしても、必要とあればいくらでも本州から投入したのです。
これは、後の日清・日露戦争に貴重な戦訓となりました。
日清・日露戦争当時の陸軍首脳はみな西南戦争の生き残りであり、次のことを実体験を通じてよく理解していました。
- たとえ弱兵であっても、補給さえ十分に行えば究極的には勝つ
- 長期戦になったら物量の差が勝敗を分ける
補給を軽視し、圧倒的物量の差に敗北した大東亜戦争時には残念ながら、この戦訓は生かされなかったようです。