日本史 読書ノート

征韓論に敗れ西郷隆盛下野/朝鮮半島と国内をめぐる西郷と大久保の"死闘"

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第5章 明治篇
征韓論に敗れ西郷隆盛下野
(1873年/明治6年)
です。

要点

  • ロシア帝国の南下圧力に対し、朝鮮半島の重要性が増す
  • 西郷隆盛は、開国・近代化を拒否する朝鮮への出兵を主張
  • 大久保利通らの猛反発により、西郷は下野した

解説

征韓論を理解するには、明治維新直後の日本を取り巻く情勢を理解しておく必要があります。

当時、ロシア帝国は太平洋沿岸に到達し、そこからさらに南下して勢力を拡大していました。清朝から奪った港には「東方を支配する町」という意味のウラジオストクという名前をつけています。つまり、ロシアは明確な領土的野心を抱いていました。

そんなロシアへの対処を考えたとき、日本にとって朝鮮半島が重要な位置に存在していることに気づきます。ロシアが南下して朝鮮半島を植民地化するようなことにでもなれば、日本にとってこれほどの脅威はありません。

そこで明治政府は朝鮮(李氏朝鮮)に対し開国・近代化を求める外交文書を送ります。しかし朝鮮側は「清朝ではなく日本の属国になれ」という意味に解釈してしまい、文書の受け取りを拒否しました。

これに対し、当時陸軍大将だった西郷隆盛は「自分が特使として乗り込み直談判する。それでもし殺されるようなことになれば、それを理由に朝鮮出兵もやむを得ない」と"征韓論"を主張します。以下にも西郷らしい、剛毅な主張ですね。

しかし大久保利通らは猛反発します。なぜならもし西郷自身が乗り込んだら、日本が脅迫に来たと感じて本当に殺されてしまうかもしれないし、西郷が特使として赴く行動を西欧列国は「日本に朝鮮進出の意図あり」と見て、日本を避難する口実にされることが予想できたからです。

さらに、岩倉使節団として欧米諸国を視察してきた大久保利通らの考えでは、一刻も早く商工業を興して社会資本を整備しないことには欧米諸国に飲み込まれるという危機感のほうが強く、とても朝鮮を相手にしているような余裕はないと思っていました。

おそらく西郷自身も、大久保らの主張を理解していたでしょう。それにも関わらず西郷が"征韓論"を主張した最大の理由は、明治維新を実現させた武士たちへの配慮からでした。

幕末の志士たちは、命がけで明治維新を実現させたにも関わらず、維新後はどんどん地位が低下していきました。これではあまりに可愛そうではないか、と維新第一の功労者である"大西郷"は考えていました。つまり、西郷にとって征韓論とは外交問題というよりも内政問題として捉えていたのです。

天下の衆望を集める、富士山のような存在だった西郷を相手に、大久保利通は最後まで譲らず徹底的に反対し、征韓論を斥けます。こんなことができるのは、幼少の頃からの付き合いだった大久保利通にしかできなかったことでしょう。

大久保も西郷も、激しく激論を交わしましたがそこに私情や私利私欲はまったくありませんでした。このあたりが明治の元勲たちの偉大で素晴らしいところだと感じます。

征韓論を斥けられた西郷は、潔く下野する道を選びます。彼ほどの人物ならクーデターをおこしても成功する確率は高かったはずです。しかしそれでは国内を不必要に混乱させるだけだと分かっていたのでしょう。こういった姿勢からも、西郷の人間の大きさをうかがい知ることができます。

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