この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第5章 明治篇
岩倉米欧使節団の派遣
(1871年/明治4年)
です。
要点
- 明治政府の主要メンバーが、2年近くかけて欧米諸国を視察
- 明治維新後、どんな国家をつくるべきかのヒントを得るためにの視察だった
- 実際に欧米の近代文明に触れることで、その後の政策に迷いがなくなった
解説
岩倉使節団は、岩倉具視を団長とする欧米使節団のことで、明治4年~6年(1871~1873年)に1年10ヶ月かけて米・英・仏・独など全部で12カ国もの国を回りました。
岩倉使節団の特筆すべき点は、何と言ってもその参加メンバーです。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文といった明治維新の主役級の人物たちが参加しました。なぜこれがすごいことなのかというと、これだけトップクラスの人物たちが一度に国を留守にしたら、その間に国内で政変が起こってもおかしくないからです。そういったリスクを覚悟してでも、彼らは実際に自分たちの目で欧米の近代文明を見なくてはわからない、という強い意志のもと視察を行ったのです。
そして実際に岩倉使節団の一行が見たものに、かなり衝撃を受けました。アメリカでは、サンフランシスコからワシントンに向かう大陸横断鉄道が既に開通していました。当然日本には鉄道など1本も走っていない時代です。そんな時代に、アメリカ大陸の端から端まで鉄道が貼り巡られているわけで、相当驚いたことは想像に難しくありません。
ロンドンやパリでは、道路が石畳で舗装されています。当時の日本の道路は舗装などはされておらず、風が吹けば土埃が舞っていました。
さらに、その立派な道路の両脇には、江戸城よりも高い石造りの建物がずらりと並んでいて、そこにはなんと庶民が住んでいると聞いて二重に驚きます。
使節団の一行の偉いところは、圧倒的な力と富の差をまざまざと見せつけられたにもかかわらず、絶望することなく、徹底的に欧化政策をとるぞ、と腹をくくったのです。
欧化政策とはつまり、それまで士農工商として重要視していなかった工業と商業を振興することです。
廃刀令などによって武士の特権を排し、当時としては途方もない借金をしてまでも商工業に投資をするという決断の背景には、この使節団の体験があるのです。