日本史 読書ノート

大政奉還・小御所会議/「公武合体」から「統幕親政」に急転した小御所会議の歴史的意義

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第4章 江戸篇
大政奉還・小御所会議
(1867年/慶応3年)
です。

要点

  • 徳川慶喜が朝廷に政権を返上したのが大政奉還
  • 京都御所で慶喜不在のなか行われたのが小御所会議
  • 小御所会議の結果、公武合体から倒幕親政へ風向きが変わった

解説

大政奉還とは、慶應3年(1867年)に徳川慶喜が朝廷に政権返上した出来事のことです。

慶喜はなぜ、自らの権力を黙って差し出すようなことをしたのでしょうか?それは、政権を返上しても、長年政治を司ってきたのは徳川家であり、大政奉還後も実務能力を持っているのは徳川家しかいないのだから主導権は引き続き握れると読んでいたという話があります。

いずれにしても大政奉還は、徳川家にとっては致命的なミスでした。なぜなら、徳川家が諸大名に対して権威を持っていたのは、朝廷から従一位右大臣・征夷大将軍に任命されているからであり、さらには太政大臣となって公家を支配する地位を与えられているからです。つまり、自ら勝ち取った権力のようにみえて、実際には朝廷に任命された地位であったわけです。

そのため大政奉還してそれまでの肩書を失えば、いくらかこの実績がすごかろうと諸大名のうちのひとつに成り下がってしまうわけです。

現代で例えるなら、社長や役員まで上り詰めたあと、役職定年や再雇用で平社員と同列となった立場の人は、どんなに偉ぶっても決定権はなくなってしまうのと似てますね。

大政奉還後、王政復古の大号令が発せられたその同じ日に、京都御所の中にある小御所という場所で「小御所会議」が開かれます。

参加者は、次のような面々でした。
・皇族・・・有栖川宮熾仁親王など
・公家・・・岩倉具視など
・旧藩主・・・山内容堂、島津忠義、松平春嶽など
・その他・・・大久保利通、後藤象二郎など

小御所会議で主導権を握ろうとした山内容堂は冒頭、「この会議に慶喜を呼ばないのはおかしい。ここに集まっている者たちは、天皇がお若いのをいいことにして自分が天下を取り、天下をほしいままにするつもりか」と言い放ちます。

もしここで誰も言い返せなかったらおそらく、小御所会議は山内容堂が議論をリードしていたことでしょう。

しかし、岩倉具視が「天皇はお若いとはいえ聡明でいらっしゃる。何たる失礼なことを言うのだ」と興ってみせたといいます。

ちなみに小御所会議は、明治天皇が御簾の奥にですがお出ましになっていた御前会議でした。天皇の御前だったので山内容堂はすっかり恐縮し、それ以上の発言はできませんでした。

岩倉に続き大久保利通は次のように論じます。

「慶喜がここに列席するためには、まず慶喜自身が恭順の意を表さねばならない。徳川が領地を差し出し、官位をすべて手放すなら出席を認める」

つい数日前までは最高権力者として君臨していた将軍に対し、こういった発言が出る事自体、すっかり徳川家の権威は失墜していたようです。

これで会議の趨勢は決しました。当時、最も穏当で無難と思われていた政治論は公武合体論でした。朝廷と大名が集まって合議してやっていこう、という論です。

しかし小御所会議で大きく流れが変わり、一気に倒幕親政(徳川幕府を倒して天皇が直接政治を行う)へと時代は向かうことになりました。

渡部氏は、子供の頃に習った日本の歴史で「維新の四大偉人」の一人に岩倉具視があげられているのが不思議でならなかったといいます。

私も、歴史の授業で岩倉使節団というのを習った時、「岩倉具視って何にもしてないじゃん、一応公家ってことでお飾りでリーダーになってるのかな」くらいにしか思っていませんでした。

明治維新によって徳川幕府が終わったのは、小御所会議がきっかけであり、その小御所会議での岩倉の発言が大きなきっかけになったことを維新の元勲たちはよく心得ていたのだろう、だから維新の四大偉人にあげられているのだと渡部氏は解説しています。

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