この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第4章 江戸篇
桜田門外の変
(1860年/安政7年)
です。
要点
- 幕府は、ジョン万次郎を通じてアメリカの真意を把握していた
- 井伊直弼は強引に開国し攘夷派を弾圧した(安政の大獄)
- 江戸城桜田門外で、憤怒した水戸藩士に襲撃される(桜田門外の変)
解説
ジョン万次郎は、海で遭難した後、アメリカの捕鯨船に助けられそのまま渡米してしばらくアメリカで生活していた日本人です。アメリカで結婚もしていた万次郎ですが、日本に帰国していました。
黒船来航に悩まされていた幕府は、日本人で当時のアメリカの事情をよく知る人物として万次郎を重用しました。そして開国を迫るアメリカの真意を理解するようになります。中でも重要なのが「アメリカは日本を征服する気はない」という点です。アメリカの目的は、捕鯨船のために物資補給できる避難港の獲得、そしてついでに貿易ができればいい、といったものでした。
それを聞いた幕府は、さほど危機感を持つ必要なしということで開国に向けて動き出しました。開国するという判断は間違っていませんでしたが、その進め方が強引だったため攘夷派の反発を買いました。
大老井伊直弼は攘夷派に対し「安政の大獄」を行って、当時いちばん考えが進んでいた多くの知識人を処刑してしまいました。有名な人物を例にあげると、長州の吉田松陰や越前の橋本左内らです。井伊直弼は家柄もよく文武両道に秀でた人物でしたが、これはなんと言っても愚策でした。
攘夷派の反感を買っていた井伊直弼は安政7年(1860年)、江戸城桜田門外にて水戸藩士(薩摩藩士も一人)に襲撃され、命を落とします。
水戸藩は、尊王思想を持つ藩です。朝廷からも、幕府が孝明天皇の意向を無視してアメリカと勝手に修好通商条約を結んだり、一橋慶喜を14代将軍にしようとした大名たちを処罰したことに対して弾劾する密勅を水戸藩士の鵜飼吉左衛門に託していました。
井伊直弼はこの動きに激怒し、水戸藩に密勅の提出を求めたのです。その求めに憤慨した水戸藩士たちが、白昼堂々、ときの最高権力者である大老を暗殺したというのが「桜田門外の変」です。
渡部氏は、この事件をシンボル的な事件と述べています。
当時の武士たちは、自分の藩主が絶対的な君主でした。その藩主でさえ逆らうことができない絶対的存在が徳川幕府であり、畏れられる存在でした。
その幕府最高の重職である大老が、城の前で20人足らずの浪人たちに殺されたというのはこれ以上ないほどの権威の失墜でした。
幕府恐るるに足らず、とばかりにその後、各藩で倒幕運動が展開され、桜田門外の変からわずか7年後に大政奉還が行われることになるのです。