日本史 読書ノート

ペリー来航/勅命を無視した幕府への怒りから「尊王攘夷」が生まれた

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第4章 江戸篇
ペリー来航
(1853年/嘉永6年)
です。

要点

  • 嘉永6年(1853年)、ペリーが黒船で浦賀に来航
  • 幕府は諸大名や朝廷に相談を持ちかけたことで、大名や朝廷に発言権が生まれた
  • 大老井伊直弼が、勅許を無視して日米修好通商条約に調印

解説

嘉永6年(1853年)のペリー来航は、日本史上TOP10に入るであろう一大トピックでした。ただ、当時ペリー来航前から西洋の列強諸国による接触は何度かありました。

ペリーがそれまでの列強諸国と違ったのは、その要求が強硬かつ執拗だった点にあります。そしてペリー来航をきっかけとして、日本は最終的に開国し近代化への道を駆け上ることになるのです。

当時の天下騒然の様子をうまく言い表した狂歌があります。

泰平の 眠りをさます 上喜撰
たった四杯(四隻)で 夜も眠れず

上喜撰(じょうきせん)とは銘茶の名前で、ペリーたちの蒸気船にかけているんですね。

開国を迫られた幕府は対処に困り、老中阿部正弘は諸大名に相談を持ちかけます。しかしこれは幕府としてはしてはならないことでした。なぜならこれをきっかけとして、諸大名に外交への発言権が生まれたからです。

結果、国政を合議制で決定しようという「公議輿論」の考え方が広まり、幕府の権威を下げる結果となりました。

これだけではありません。阿部正弘の後任者である堀田も、アメリカの中日総領事ハリスの上申書を諸大名に示し、開港通商に関する意見を建白させました。さらに安政5年(1858年)、調整に修好通商条約締結のお伺いを立てます。これは、朝廷にも政治・外交に対する発言権が生まれたことを意味します。

朝廷は修好不許可の勅命を出します。

その後、大老に就任した井伊直弼は「条約調印に勅許は不要」という幕府内の意見に押され、日米修好通商条約を結びました。

攘夷(外敵を排斥すること)思想の孝明天皇は震怒し、二度も攘夷の意思を表明します。これが「尊皇攘夷」というスローガンとなり、幕末の動乱へつながるきっかけとなるのでした。

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