この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第4章 江戸篇
松平定信「寛政の改革」
(1787年/天明7年)
です。
要点
- 老中定信は、祖父・吉宗の「享保の改革」にならい改革を行った
- 寛政の改革は、武士の評価は高いが庶民にとっては締め付けの厳しいものだった
- 江戸の庶民の間では、定信の前の田沼時代を懐かしむ者も多かった
解説
賄賂と汚職の時代とも言われた田沼意次の失脚後に老中となったのは、8大将軍吉宗の孫にあたる松平定信でした。
定信は奥州白河藩松平家の養子となり、天明の大飢饉を切り抜けるなど藩政において一定の成果をあげていました。
また定信にとって、身分の低い田沼が勢力を振るうことを快くは思っていませんでした。その反動もあり、自らが老中になってからは田沼時代とは真逆の政策、つまりは倹約と贅沢の禁止を主とした政策を行いました。これは祖父である吉宗が行った「享保の改革」にならったものであり、白河藩で成功したやり方でした。
しかし一藩のレベルでは有効な政策であっても、中央政治ではまったく勝手が違います。結局「寛政の改革」は6年ほどしか持ちませんでした。
また風紀の取り締まりも厳しく、洒落本や浮世絵などが衰える時代となりました。前の時代の田沼時代は、葛飾北斎や本居宣長など、江戸時代全体を代表するような人物が多くいました。
こういった流れを受け、庶民の間では厳格な定信の政策より、賄賂と汚職にまみれていたかもしれないけど文化的にも商業的にも繁栄していた田沼時代を懐かしむ者が多くいました。
それを象徴するような狂歌があるので紹介しましょう。
世の中に
蚊ほど(これほど)うるさきものはなし
文武文武(ブンブブンブ)と
夜も寝られず
白河(定信)の
清きに魚も棲みかねて
もとの濁りの
田沼恋しき
当時の庶民の感情がよく伝わってきませんか?