日本史 読書ノート

吉宗「享保の改革」/白石の改革を否定した"将軍親政"の功罪

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第4章 江戸篇
吉宗「享保の改革」
(1716年/享保元年)
です。

要点

  • 「享保の改革」は吉宗自らが行った親政
  • 江戸の風紀は良くなり、財政も14年で立て直した
  • 武士からの評価は高い一方、庶民からは不評だった

解説

八代将軍吉宗が行った「享保の改革」は、それまで新井白石が中心になって行っていた政策を否定するような内容で、それは武士からは高く評価された一方、庶民にとっては不評でした。

まず、吉宗は武道を奨励し風紀の乱れを厳しく取り締まりました。その結果、江戸城の風紀はよくなった反面、元禄風文化は終わりを告げました。

経済政策としては、大名から1万石につき百石を献上させたり、新田開発をすすめたりした結果、約14年で幕府の財政を整理しました。大成功といってよい結果でしたが、一方で米の生産量が増加したため米価が下がりました。

江戸時代の武士の報酬はお米だったので、米の値段が皿具と武士は困ります。そこで吉宗は米の値段が上がるまでは借金の返済は不要としました。これは「徳政」と受け取られ、借金を返す者がいなくなりました。するとお金を貸す人もいなくなり、金融停止状態となって大混乱が生じることになりました。

吉宗が武士たちの間で名君と呼ばれる理由のひとつに、「相対済し令」があります。これは、旗本・御家人と札差(武士たちにお金を貸す人)との間でお金のトラブルが頻発していたのですが、その訴訟を取り上げず、当事者間で解決せよというものでした。

武士と庶民が当事者間で話し合えば当然、武士たちのほうが立場が強いので有利ですよね。

その他、目安箱を設置したり、貧しい病人たちのために小石川養成所を作ったりといった名君の名にふさわしい政策も行っています。

しかし、江戸の町人たちからは享保の改革は必ずしも歓迎はされなかった、という一面もあったのです。

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