日本史 読書ノート

赤穂浪士の吉良邸討ち入り/いまも歌舞伎の人気演目『忠臣蔵』のパラドックス

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第4章 江戸篇
赤穂浪士の吉良邸討ち入り
(1702年/元禄15年)
です。

要点

  • 切腹させられた赤穂藩主の仇討ちのため、家老大石内蔵助らが吉良邸へ討ち入りした事件
  • 仇討ちは、実際にはほとんど行われていなかったため、国民的大評判となった
  • アメリカ軍が日本を占領した際、『忠臣蔵』を禁止にした

解説

『忠臣蔵』として知られる「赤穂浪士の吉良邸討ち入り」は、元禄15年(1702年)、赤穂藩の家老大石内蔵助らが吉良上野介邸に討ち入り、藩主の浅野内匠頭の仇討ちをした事件です。

これは、元禄14年に浅野内匠頭が殿中松の廊下で吉良上野介に斬りかかったため、切腹を命じさせられたのを不服とし、主君の仇を晴らそうとしたものです。

元禄時代というのは、平和で華やかな時代でした。関ヶ原の戦いから90年以上もたち、経済も順調で芸能も盛んでした。市川團十郎や坂田藤十郎という名優が登場し歌舞伎というジャンルが確立しました。俳諧の松尾芭蕉や、琳派の始祖尾形光琳も元禄時代の人です。将軍綱吉が出した「生類憐れみの令」などもこの時代です。

こうした平和な時代が続き、やや怠惰な風潮が出始めていたときに、赤穂浪士が反骨の気概をみせたため、世間は大騒ぎになったのです。

この赤穂浪士の討ち入りについての評価は賛否様々で、学者の間では批判的な意見が多いです。「殿中の大法を犯したのは浅野内匠頭なのだから、切腹は当然だ」「恨む相手を間違っている、吉良ではなく幕府を恨むべき」など。

とはいえ庶民の間では大評判となり、美談として語られるようになりました。

渡辺氏は、忠臣蔵のパラドクス説を紹介しています。

日本人が仇討ちを重視したのは、日本人は忘れやすく、過去を水に流す傾向があるので、むしろパラドキシカル(逆説的)に仇討ちを重んじなければならなかったという説がある。

実際、仇討ちというのはめったに行われなかったものらしいです。

ところで、アメリカ軍が戦後日本を占領した際、『忠臣蔵』の上演を禁止していました。その理由は、日本人は非常に復讐心の強い民族だと思われていたからではないか、と分析しています。

原爆を投下したアメリカとしては、日本に復讐の気運が高まらないように禁止したものと思われます。

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