この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第4章 江戸篇
大阪冬の陣/夏の陣
(1614年/慶長19年、1615年/元和元年)
です。
要点
- 徳川家が豊臣家を滅ぼした、2度に渡る戦い
- 徳川家の将来を万全なものにするため、家康が豊臣家に言いがかりをつけた
- 豊臣家を滅ぼし、夏の陣の翌年に家康は亡くなった
解説
大阪冬の陣、夏の陣は、それぞれ慶長19年(1614年)、元和元年(1615年)に豊臣家打倒のため家康が大阪城を攻めた戦いのことです。
関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍となり天下人となった家康は、豊臣恩顧の大名たちには十分配慮をしていましたが、豊臣家を存続させたままでは、徳川家の将来に禍根が残ると考えていたようです。
そのため、家康はほぼ言いがかりのような難癖をつけて豊臣秀頼がいる大阪城を攻めます。
その言いがかりというのは、秀吉が建てた方広寺大仏殿を秀頼が再建した際、鐘の銘に「国家安康 君臣豊楽 子孫殷昌」とあるのに家康が激怒した、というものです。
国家安康 → 家康の文字を分断するとは何事か
君臣豊楽子孫殷昌 → 豊臣家の子孫繁栄をめざす意味だろう、けしからん
というわけです。
大阪城に攻め入った家康でしたが、城というものはそう簡単に落ちるものではなく、しかも大阪城は秀吉が知恵と財力を惜しみなく注いで作った天下の名城。冬の陣ではあえなくやられてしまいます。この時は大河ドラマにもなった真田幸村が築いた出島「真田丸」に痛い目に遭わされました。
不利を悟った家康は早々に平和条約を結びますが、同時に大阪城の外堀を埋めてしまったのです。これが功を奏し、夏の陣では家康軍が勝利します。
渡辺氏は豊臣家の滅亡の一因は、豊臣家が公家化したためだと評しています。秀吉は将軍ではなく関白になりました。つまり、武家ではなく公家になったとも言えます。そして公家では平安時代を見るとわかるように、女性の発言権が強まります。なんの権限も実績もない女性が国の政治に口を出すと、たいていうまくいかないというのは渡辺氏の持論です。
また、徳川時代は家康の長寿に基礎があったとも述べています。家康は享年73歳で、当時としては相当長生きです。仮に55歳で亡くなっていれば、関ヶ原の戦いはなかったし、70歳で亡くなっていたとしても豊臣家は滅ぼされることなく、場合によっては後の徳川長期政権もどうなっていたかわからない状況になっていたでしょう。
長生きした家康は、大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川家が安泰になったのを見届けると安堵したように翌年瞑目しました。