日本史 読書ノート

家康が江戸幕府を開く/源氏と称して征夷大将軍となった家康

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第4章 江戸篇
家康が江戸幕府を開く
(1603年/慶長8年)
です。

要点

  • 慶長8年(1603年)、家康が江戸幕府を開く
  • 源平交替思想に則り、家康は源氏を称した
  • 征夷大将軍というのは源氏固有のものと考えられていた

解説

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、その3年後の慶長8年(1603年)に江戸幕府を開きました。このときから家康は源氏を称し始めます。

なぜ家康が源氏を名乗るようになったのか?その理由を知るには、当時の思想をしる必要があります。その思想が「源平交替思想」です。

これは、源氏と平氏が交互に世を治めるという考え方のことです。

平安時代末期、平氏の天下でした。その平氏以降の支配者を並べるとこうなります。

平氏

源氏

北条氏(平氏)

足利氏(源氏)

信長(平氏)

信長は元来、藤原氏の系統ですが源平交替思想により自身を平家の出身と称していました。なぜなら自分が滅ぼした足利幕府が源氏だからです。

ちなみに当時の戦国武将の家では、家系図の売買や新規作成(つまりはインチキ)は珍しくなかったそうです。

信長の次の秀吉はというと、はじめ平秀吉と名乗っていた時期があり、その後関白になると一時藤原秀吉となりましたが、さすがにそんな高貴な生まれではないことは誰もが知っていて無理筋なので、源平交替思想によらず豊臣家という新たな家系を作り、将軍を飛び越して関白太政大臣となりました。

「将軍を飛び越して」と書きましたが、将軍、つまり征夷大将軍というのは、源氏固有のものと考えられていたため、秀吉も信長も将軍にはなりませんでした。

家康の場合、元来は加茂氏であり、藤原家康と称していました。そして天下を取った後、順番的に源氏になる必要が生じ、三河の吉良家の系図を譲り受け、そこに松平氏や徳川氏を結びつけて新田氏の子孫ということにしました。

新田氏の先祖は源氏の大棟梁、八幡太郎義家なので、堂々たる源氏の嫡流ということになりました。

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