この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第3章 戦国篇
関ヶ原の戦い
(1600年/慶長5年)
です。
要点
- 秀吉軍と家康軍の、「天下分け目の戦い」
- 決して家康優勢だったわけではなく、運が家康に味方した
- 関ヶ原の戦い後、一夜にして天下の大勢は決した
解説
関ヶ原の戦いは、慶長5年(1600年)に起きた秀吉軍と家康軍の決戦のことです。
秀吉の死後、家康の独走が目立ち始めます。そんな家康に対し、会津の上杉景勝は挑発的な態度をとって服従しませんでした。その上杉景勝を討つべく、家康は挙兵します。それに対し、秀吉に可愛がられていた石田三成が毛利輝元を総大将として家康打倒の兵を挙げました。
その報を聞いた家康はすぐさまとって返し、三成の西軍と美濃国関ヶ原で相まみえます。
この戦いは、決して家康率いる東軍が有利な状況ではありませんでした。それを示すエピソードとして、渡辺氏は明治時代初期に日本陸軍近代化の基礎を築いたドイツ参謀将校メッケルの話を紹介しています。
メッケルは、関ヶ原の戦いの地図を見せられてどちらが勝ったと思うかと聞かれ、それは石田方だと答えたという。
実際には、西軍は小早川秀秋の裏切りがあったり、総大将の毛利輝元が出陣しなかったりしたため、東軍が勝利しました。もっとも、東軍側でも主力の徳川秀忠軍が関ケ原へ向かう途中で真田昌幸の迎え撃ちにあい関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。つまり東軍側も100%の実力を出せていたとは言えず、まさに勝敗は紙一重の差だったといえます。
関ヶ原の戦いは、運も味方にした家康の勝利に終わりましたが、当時のほとんどの武将はこの先まだまだ争いは続くであろうと思っていました。一つの戦場の結果で天下の大勢が決まったことなどかつてありませんでした。
しかし実際には、文字通り一夜にして大勢は決し、ほとんどの大名が家康につきました。こうして徳川の世が始まります。
所感
関ヶ原の戦いは、西暦1600年というキリのいい年の出来事であり、その重要性からみてもぜひ歴史が苦手な人も1600年という年とセットで覚えておきたいものです。
こういう時代の転換点になるような象徴的出来事をいくつか暗記していると、他の出来事を目にした時「あ、これは○○が起きた年よりも前のことだな」とか、「これは○○のちょうど10年後の出来事か」といった連想ができるようになり、歴史の流れを掴むのに一役買います。