日本史 読書ノート

秀吉死す/惜しまれる秀吉の哀れな最期

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第3章 戦国篇
秀吉死す
(1598年/慶長3年)
です。

要点

  • 秀吉は慶長3年(1598年)に病死。享年62歳。
  • 晩年は英雄らしからぬ哀れな最期だった。
  • 老齢になってから男の子を授かったことで秀吉の知力が曇った

解説

渡部氏いわく、秀吉は日本史のなかで一番の英雄と評しています。それはなぜかというと、足軽という身分でありながら関白太政大臣にまでなり日本全土を統治したことをあげています。信長にしても家康にしても、出発点は大名だったことを考えるといかに秀吉の立身出世ぶりがすごいか感じさせられますね。

しかも秀吉は、信長のように片っ端から敵を潰すようなことはせずに、相手を降伏させることを第一と考えていました。そのため全盛期の秀吉にはある種の"明るさ"がありました。

そんな秀吉も晩年はまったくもって英雄らしくありませんでした。最大の理由は、秀吉が56歳という年齢になってようやく淀君との間に男の子、のちの秀頼を授かったためです。

秀頼誕生の前、秀吉は甥の秀次を後継者としていました。しかし秀吉はこの秀次のことをあまりよく思っていなかったと言われています。しかし子宝に恵まれなかったので仕方なく後継者に指名していたわけです。

しかし先に述べたように秀頼が誕生します。秀吉がこの秀頼を溺愛したことは容易に想像できます。

そして晩年、豊臣家をなんとか残したい秀吉は、家臣の前田利家や徳川家康たちに「秀頼を頼みます、頼みます」と泣きながら頼んだと伝えられています。ある意味家族思いな一面とも言えなくもないですが、仮にも天下を治めた太政大臣が天下国家よりも自分の血筋のことを最優先に考えていたのは残念な気もします。

ところで渡辺氏は小学6年生のときに「豊臣家が続いていたら鎖国はしなかったであろうから大東亜戦争は不要であっただろう」という主旨の作文を書いていたそうです。時代が違うとはいえ、小学生の時すでにそんな考察をしていたとは、さすが知の巨人、渡部昇一ですね。

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