日本史 読書ノート

慶長の役(第二次朝鮮出兵)/「露梁津の戦い」でも日本軍は勝利していた

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第3章 戦国篇
慶長の役(第二次朝鮮出兵)
(1597年/慶長2年)
です。

要点

  • 秀吉による二回目の朝鮮出兵
  • 初戦は苦戦するものの盛り返し始めたところ、秀吉が病死したため引き上げることに
  • 李舜臣率いる朝鮮軍との「露梁津の戦い」でも日本軍が勝利していた

解説

慶長の役は、慶長2年(1597年)に秀吉が命じた朝鮮出兵のことです。第一次朝鮮出兵の文禄の役は、明への侵攻が主目的でしたが慶長の役は、朝鮮への攻撃が目的でした。

慶長2年12月20日の「蔚山城の戦い」では、まだ蔚山城を築城中だったにもかかわらず警戒をおろそかにしていた日本軍は、明・朝鮮連合軍に責められ外郭を取られてしまいます。さらに、兵糧を運び込んでいなかったため年明けころには玉砕寸前まで追い詰められました。

しかしこの後、和平交渉で時間を稼いでいるうちに毛利秀元や島津義弘などの援軍が駆けつけ形勢逆転します。

特に島津軍の戦いぶりは圧倒的で、明・朝鮮軍は島津軍を「シーマンヅ」と読んで恐れ、数百年後の日清戦争のときでも「シーマンヅ」と聞くとシナ人は怖がったといいます。

順調に戦いを進めていた日本軍でしたが、慶長3年8月18日、秀吉が伏見城で病死します。これは朝鮮出兵どころではないということで、毛利輝元、宇喜多秀家、前田利家、徳川家康の4大老は引き上げを命じることになります。

戦況は日本軍有利だったため、講和交渉は円滑に進みました。当然、秀吉が病死したことは伏せたままの交渉です。

講和がまとまり引き上げることになった日本軍でしたが、明の水軍と朝鮮の李舜臣率いる水軍が古今島で引き上げ中の日本軍を待ち受けて会場を封鎖しました。

そこへ島津軍が現れ「露梁津の戦い」が起こります。朝鮮の李舜臣は、現在の韓国で「秀吉軍を打ち破った韓国史上最大の英雄」とされています。

しかし実際には日本軍のほうが優勢だっただろうと、渡辺氏は分析しています。

なぜならこの戦いで、島津側の主だった武将は全員無事だったのに対し、明の副将は斬り殺され、李舜臣も鉄砲の弾丸にあたって戦死しています。

なぜ韓国では日本を打ち破って朝鮮が勝ったことになっているのか?それは、明・朝鮮の報告書は皇帝に褒めてもらうために嘘の内容、つまり戦果を水増しして報告していたためです。さらに明の兵隊は朝鮮人の首を切って日本人の首だと言って出世し、朝鮮人も同胞の首を取って差し出したと言われています。

ここ数年で、朝鮮人の不誠実さを証明するような事件が立て続けに起きています。(日韓合意破棄、レーダー照射問題、徴用工問題、戦略物資の不透明な取引疑惑など)

歴史を紐解いてみると、昔から民族性というのは変わっていないんだなぁと改めて思わされるエピソードです。

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