この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第3章 戦国篇
小牧・長久手の戦い
(1584年/天正12年)
です。
要点
- 信長亡き後の秀吉 vs 家康の対決
- 秀吉の柔軟な作戦変更により、秀吉優位で講和
- 講和後、家康は嫡男と重臣の息子を人質に取られた
解説
小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)に起こった秀吉と家康との戦いです。
明智光秀を討ち取った秀吉は、その後柴田勝家も滅ぼし、たった一年で信長よりも広大な領地を得ました。
そのころ、信長の二男である信雄と秀吉は関係が悪化していました。そこで信雄は家康を頼り、家康は信雄の後見人として秀吉に対して兵を挙げます。
家康は要害の地である小牧山を占領。いつもは敏速に機先を制する秀吉でしたが、この時は珍しく先手を取られます。およそ半月後、ようやく自軍の池田恒興が奪った犬山城に入城しました。
ここでは家康軍が上手で、秀吉の池田・森両軍は長久手で全滅してしまいます。
秀吉はすぐさま反撃しようとしますが、家康はさっさと清州城まで退却していました。秀吉も家康も戦の名人であり、お互い無理はしません。
膠着状態が続くかと思いきや、そこは秀吉が柔軟な発想で作戦変更をします。家康に対峙するのではなく、信雄がいる伊勢長島に攻撃目標を変えました。そして信雄は降参することになります。
家康としては、信雄を助けるという名目で挙兵したので、その信雄が降参してしまった以上、戦う理由がなくなってしまったわけです。
一局面に執着しない秀吉の発想は、当時の武将には見られないすごさだ、と渡部氏は評価しています。
講和の結果、家康は嫡男・於義丸と重臣石川数正の息子を人質に差し出さざるを得ませんでした。秀吉は於義丸を養子にし、羽柴秀康として河内一万石を与えましたが、家康にとっては不本意な内容でした。