この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第3章 戦国篇
本能寺の変
(1582年/天正10年)
です。
要点
- 秀吉援軍のため出陣した明智光秀が、本能寺にいた信長を暗殺
- 本能寺の変を知った秀吉は大急ぎで引き返し光秀を討伐
- 謀反の理由は諸説あるが、決定的な説はない
解説
本能寺の変は、天正10年(1582年)に明智光秀が織田信長に対しておこした謀反です。
当時、信長はほぼ天下を手中に収めていました。残る大敵は中国地方の毛利家くらいでした。その毛利家討伐のため、羽柴秀吉が進軍していました。信長はさらに、秀吉の援軍のために明智光秀を出陣させます。
しかし光秀は出陣後、向き先を京都から信長がいた本能寺へ変え、信長を討ちました。
なぜ光秀は信長を暗殺したのか?それは今現在でも謎のままです。しかし、綿密な計画のもと行われたものではないだろうと渡辺氏は分析しています。なぜなら、あらかじめ手回しをしたような形跡もなく、謀反のあと光秀についてくる武将もいなかったからです。
一方、本能寺の変の知らせを聞いた秀吉は、迅速な行動に出ます。いわゆる「中国大返し」と言われるもので、交戦中だった毛利軍と早々に講和を結び、光秀のいる京へ大急ぎで引き返します。そして山崎の戦いで光秀軍を撃破しました。
本能寺の変は、史学的にはあまり重要な研究テーマとはみなされていないようです。しかし、天下統一目前だった天才・信長を討ち取ったこの大事件は、日本史上に残る永遠のミステリーとも呼ばれ、多くの人の想像力を刺激し多種多様な説が生まれています。