この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第3章 戦国篇
長篠の戦い
(1575年/天正3年)
です。
要点
- 上洛をはじめた武田軍と織田・徳川連合軍の戦い
- 馬防柵と鉄砲隊により武田軍は総崩れ
- 鉄砲の一斉射撃という作戦は、西欧より1世紀以上の先んじた画期的かつ近代的な作戦
解説
長篠の戦いは、天正3年(1575年)、三河国長篠城を包囲した武田軍と織田・徳川連合軍が衝突した戦いのことです。
長篠の戦い以前、織田信長が最も恐れていた武将が甲斐の武田信玄でした。その信玄が元亀3年(1572年)、本格的に上洛を開始し、信長と同盟関係にあった徳川家康に攻撃を仕掛けます。
このときの織田・徳川連合軍は三方ヶ原の戦いで惨敗します。しかし信長にとって幸運なことに、天正元年(1573年)、信玄は進軍中に病死しました。
信玄の後継者である勝頼は、天正3年(1575年)に再び京都を目指して進軍をはじめました。そして現在の愛知県にあたる三河国の長篠城で織田・徳川連合軍と衝突します。
長篠の戦いで特筆すべき点は、馬防柵を築いた点です。馬防柵を築き、その後ろに数千もの鉄砲隊を配置し、次から次へと間断なく撃てるような工夫をしたのです。「三段撃ち」として有名ですね。
信長が考案したこの作戦は、非常に画期的かつ近代的なものでした。
渡部氏は、「信長は鉄砲の本場であるヨーロッパより1世紀以上も先んじていた。」と評価しています。
というのも西洋で同様の作戦(馬防柵で敵を抑えながら鉄砲で一斉射撃する)が最初に用いられたのは、1691年のハプスブルク軍がオスマントルコ軍を破ったときだからです。
知の巨人と言われた渡部氏は、このように古今東西、洋の東西を問わず縦横無尽に様々な出来事を比較しながら解説しているので、個々の出来事の持つ相対的な意味や重要性を理解しやすいです。