この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第3章 戦国篇
比叡山焼き討ち
(1571年/元亀2年)
です。
要点
- 反信長勢力である浅井・朝倉が比叡山延暦寺に立てこもる
- 信長は比叡山のすべての建物、女や子供も皆殺しにした
- 比叡山焼き討ちにより中世が終わり、近世が始まった
解説
機内をほぼ平定し、足利幕府最後の将軍、足利義昭を京都から追放した信長には、依然として反対勢力がいました。
近江の浅井長政と越前の朝倉義景の連合軍です。浅井・朝倉連合軍は比叡山延暦寺に立てこもります。その比叡山に対し信長は浅井・朝倉の引き渡しを要求するも拒絶され、さらに本願寺門徒衆は近江の通路を塞ぎ、信長の本拠地である尾張との交通を絶ちます。
さすがに勝ち目がないとふんだ信長は、正親町天皇に勅命を請い、浅井・朝倉、本願寺といったん講和を結びます。
そして体勢を立て直した翌年の元亀2年(1571年)、浅井長政の居城となっていた小谷城を攻め、さらに比叡山焼き討ちを行いました。
その徹底ぶりには賛否両論がありますが、渡部氏は同時期のイギリスで同じような「中世破壊」的出来事が起こっていた点に注目しています。
その出来事とはヘンリー八世がカトリックの大修道院をことごとく破壊し、宗教改革を行ったというものです。中世の権威の象徴であるカトリック教会が完全に破壊された結果、イギリスでは近世が始まりました。
信長の比叡山焼き討ちは、日本における中世の権威の象徴であった比叡山を破壊した結果、日本の中世は終わり近世が始まったのです。