この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第3章 戦国篇
桶狭間の戦い
(1560年/永禄3年)
です。
要点
- 今川義元との最終決戦が桶狭間の戦い
- 2万の軍勢に対し、2千で挑み勝利
- 信長の論功行賞の内容が画期的だった
解説
桶狭間の戦いは、永禄3年(1560年)に織田信長と今川義元との間で行われた戦いです。
織田家は、信長の父信秀の時代から今川義元と国境をめぐって争いが絶えませんでした。その今川義元が、上洛を目指し2万もの大軍で織田家の尾張に進行しました。
迎え撃つ織田信長の軍勢はわずかに2千。十分の一しかいなく、常識的に考えれば勝負にならないほどの戦力差です。
この時、信長が謡った歌が有名ですね。
「人間50年、下天の家を比ぶれば夢幻のごとくなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」
信長は、進軍中の今川軍に斬り込みます。進軍中であれば、紐状に伸びた状態の敵を横から襲う形で戦えるからです。実際、信長が義元目がけて斬り込んでみると、周囲にはわずか500騎ほどしかおらず、しかも戦えるのはさらに200騎ほどしかいなかったので、戦力的に逆転した形となりました。
そして見事、毛利新助と服部小平太の二人が今川義元の首を討ち取りました。
桶狭間の戦いの特筆すべき点は、僅かな軍勢で大軍を打ち破った点が挙げられますが、もう1つ、画期的な点があります。それは信長による論功行賞です。
敵の大将、今川義元は百万石の大大名で、恩賞第1等は義元を討ち取った毛利・服部の2名がなってもおかしくはありません。しかし信長は、敵がいつ何処にいるか、その情報を伝えた野武士上がりの簗田政綱でした。
信長にしてみれば、自分が考えた通りに作成を実行すれば必ず勝利するという確信があったのでしょう。そのため、一番重要なのは首をとった者ではなく、「情報」を提供した者だと考えたのです。
現代においては情報の価値は広く浸透していますが、当時としては画期的なことでした。