この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第2章 中世篇
南北朝の統一
(1392年/明徳3年)
です。
要点
- 三代目の義満の時代に足利幕府が安定し始める
- 南朝成立後57年目にして、南北朝が統一
- 統一に至るまでには義満の奸計があった
解説
後醍醐天皇による建武の中興以後、南北の2つに分裂していた皇統は、明徳3年(1392年)に再び統一されます。
足利幕府の三代目、足利義満の時代になると、南朝はじょじょに弱体化していき、めぼしい人物は後醍醐天皇を支え続けた楠木一族の正勝のみといった情勢になります。
その正勝も、楠木正成が守り抜いた南朝のシンボルともいえる千早城が陥落したため義満に降伏しました。
義満は南朝に対して、南北朝統一の条件をいくつか出しました。その内容は、なるべく穏便に、平等に統合しようという意図が感じられるものでした。
しかし、いざ南朝側が京都へ帰ってくるといかにも敗者に対する態度で、南朝の存在意義を否定するかのようなものでした。
例えば、南朝側が持っていた三種の神器を渡す際の儀式は、古事記にある「国譲り」に倣ったものという約束でした。しかし実際には、源平合戦の時に平家が持っていった神器が戻ってきた時と同じやり方でした。これはつまり、あるべきものがあるべきところに戻ってきたということを意味しており、南朝側にあったのは本来あるべき状態ではなかったということを意味していたのです。
さらに、講和条件には南朝の後亀山天皇は領土をもらえる約束でしたがもらえず、生活にも困窮するような状態でした。そこで後亀山天皇は、義満の死後の翌年に小規模ながら挙兵します。
その時幕府側は、旧領を与えるという条件で後亀山天皇を京都に呼び戻しました。しかし、この時もまた約束は守られず、皇位も決して南朝系に戻すことはありませんでした。
かくして南朝系は完全に途絶えることになったのです。