日本史 読書ノート

湊川の戦い・南北朝成立/日本型思考の典型となった楠木正成の「聖戦思想」と「桜井の別れ」

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第2章 中世篇
湊川の戦い・南北朝成立
(1336年/建武3年)
です。

要点

  • 足利尊氏軍と後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成軍との戦い
  • 楠木正成の進言は退けられ、息子の正行に桜井で別れを告げる
  • 戦いに敗れた後醍醐天皇が、奈良に南朝を開き南北朝時代が始まる

解説

一度劣勢になり九州へ逃れた足利尊氏でしたが、体制を立て直し大群を率いて京へ攻め上ります。その際、後醍醐天皇は楠木正成に対し、新田義貞の援軍に向かうよう命じました。

しかし正成は、一旦尊氏軍を京都に入れ、食料輸送を断って兵糧攻めにし、ゲリラ戦を行うという作戦を進言します。

作戦としては理にかなっていて有効と思われる案でしたが、後醍醐天皇はこの案を却下してしまいます。

せっかく勝てる見込みのある作戦案を却下されてしまった楠木正成でしたが、落胆することなく「いまはこれまで」と、勝ち目のない戦へ潔く出陣します。

死を覚悟した正成は、息子の正行に今生の別れを告げます。これは「桜井の別れ」として有名で、戦前の日本人なら誰もが知っていたエピソードだといいます。

正成は正行に、「私が死ねば尊氏の天下になるだろうから、おまえは郷里に帰って、忠義の心を失わずに生き延びて、帝に尽くし、いつの日か必ず朝敵を倒せ」と言い聞かせ、天皇より賜った菊水の紋が入った短刀を形見として授けました。

ちなみに菊水の紋は、楠木家の家紋です。

湊川の戦いでは義貞軍のミスもあり正成軍は孤立してしまい玉砕をとげます。

渡部氏は、楠木正成のことを「近代国家の軍人のあり方の先駆」と評しています。どういうことかというと、当時の武士というのは主義のためではなく所領を得るために戦っていました。一方の正成は、自身が信じた大義のために戦っていました。

正成の弟の正季は、「七度生まれ変わって朝敵を倒したい」と言い残しました。これは大東亜戦争時代に「七生報国」というスローガンとして多用されました。

戦いに破れた後醍醐天皇ですが、一度は尊氏との和睦を受け入れます。しかし幽閉先から脱出し、吉野(現在の奈良県)に吉野朝(南朝)を開きます。

かくして南北朝時代が始まりました。

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