この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第2章 中世篇
元弘の乱・鎌倉幕府滅亡
(1331〜1333年/元弘元年〜3年)
です。
要点
- 鎌倉幕府討幕のため元弘元年(1331年)に後醍醐天皇が挙兵
- 楠木正成の活躍
- 形勢逆転しあっという間に鎌倉幕府は滅亡した
解説
元弘の乱は、元弘元年(1331年)、天皇親政を目論む後醍醐天皇が山城国笠置山で挙兵した乱のことです。
幕府討幕計画が幕府側に漏れてしまい、後醍醐天皇は三種の神器を持って御所を脱出しました。
この時、後醍醐天皇に強力な味方が現れます。それが河内の武将、楠木正成(くすのきまさしげ)です。
笠置山で挙兵した後醍醐天皇に呼応して、楠木正成は赤坂城で挙兵します。後醍醐天皇は幕府軍に破れ、赤坂城に向かう途中で幕府軍に捕まり隠岐に流されます。
しかし、楠木正成がいる赤坂城は奮戦します。そして金剛山に千早城を築いて本拠地とし、徹底抗戦を始めたのです。
とはいえ精力的には幕府軍のほうが圧倒的に大群で、千早城陥落も時間の問題と誰もが思っていました。
しかし、落ちない。幕府軍が総力を挙げて攻めかかっているのに、楠木正成が守る千早城はどうしても落ちない。
こうしてちっぽけな小城ひとつ落とせない幕府軍、という話が全国に知られてくると、それまで幕府軍に対して密かに不満を持っていた勢力もにわかに活気づき、反幕府の兵を挙げはじめました。
その武将の中に、足利高氏(尊氏)や新田義貞もいました。
そして、足利高氏が京都の六波羅探題を落としてから一ヶ月もしないうちに吸収の鎮西探題も落ち、関東から九州にあった幕府の拠点がすべて潰され、あっという間に鎌倉幕府は滅んでしまいました。
所感
鎌倉幕府が滅びるという、一大事のきっかけが、千早城という小城がなかなか落ちないという点だったところが元弘の乱のポイントですね。
後醍醐天皇が挙兵した段階では、多くの人が幕府有利と見ていたはずです。それがちょっとしたきっかけで、歴史が大きく変わるほどのうねりにつながっていく。歴史ってホント、面白いですね!