日本史 読書ノート

後醍醐天皇即位/「稽古の君」が打ち出した宋学の「大義名分」と「正統論」

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第2章 中世篇
後醍醐天皇即位
(1318年/文保2年)
です。

要点

  • 後醍醐天皇は31歳の時に即位
  • 従来の皇位継承方法に反感を抱き、討幕の計画を立てる
  • 宋学の大義名分と正当論は、明治維新の行動原理にもつながる

解説

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、文保2年(1318年)、31歳の若さで即位しました。後醍醐天皇といえば、天皇親政の「建武の中興」を行った天皇として有名です。

後醍醐天皇の時代というのは、以前天皇家の相続問題が起こっていた時代でした。その結果、幕府主導で持明院統と大覚寺統を交互に皇位につけることになっていました。

大覚寺統系である後醍醐天皇が即位すると、次の皇太子は順番的に持統院系となり、執権・北条高時は持統院統の後伏見天皇の子、量仁(かずひと)親王を皇太子に立てます。

当時の慣習からすると別に幕府に悪意があったわけではないのですが、後醍醐天皇は非常に腹を立て、幕府打倒の決意をします。

なぜ後醍醐天皇は腹を立てたのか?渡部氏は、その原因の一つに宋学を上げています。後醍醐天皇が学んだ宋学というのは、中国の正当論を説く学問でした。

日本において、幕府が皇室のあれこれを決めるのはおかしい。後醍醐天皇はそう感じたのでした。

その結果、皇室に権力を取り戻そうと決起します。そして鎌倉幕府を倒し、建武の中興と言われる天皇親政を行うに至ります。

ただその新政は失敗し、長くは続きませんでした。しかしこの時の動きは、後の明治維新の志士たちが大いに参考にしました。

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