日本史 読書ノート

元寇 文永の役/弘安の役/日本の国難を救ったのは「神風」ではなかった

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第2章 中世篇
元寇 文永の役/弘安の役
(1274年/文永11年、1281年/弘安4年)
です。

要点

  • 北条家の倹約精神と備えによって蒙古襲来に対応できた
  • 日本を守った武士たちに対する朝廷の評価は低かった
  • 時の執権・北条時宗は元寇から日本を守るために生まれてきたような武将

解説

元寇(げんこう)は、中国を支配していたモンゴルの元軍が二度に渡り日本へ攻め入ってきた事件です。日本史に詳しくない人でも元寇を知らない人は少ないでしょう。

事の発端は文永5年(1268年)、クビライ・カンが朝鮮経由で日本に国書を送ってきたことに始まります。

その内容が無礼かつ脅迫的だったため、時の執権・北条時宗(ほうじょうときむね)は使者を追い返します。時宗は当時、まだ17歳の若さでした。

かくして文永11年(1274年)、元軍1回目の攻撃である「文永の役」が始まります。

元軍4万に対し迎え撃つ日本軍は5千人足らずと、数的には圧倒的に劣勢でした。

一般的に、元寇は神風が吹いたことで元軍が撤退した、と言われています。神風とは台風のことですね。

しかし、それだけが理由ではありません。

渡部氏は、以下の点を指摘しています。

  • 少弐資能(しょうにすけよし)の息子景能(かげすけ)が敵将を射落とした
  • その夜、嵐により多くの船が沈んだ
  • 元軍再来に備えて博多の守りを固めた
  • 2回目の攻撃である「弘安の役」でも大暴風雨があって元軍は全滅
  • 朝廷では国難打開の祈祷をした
  • 北条家が長年倹約につとめたおかげで財政的にも蒙古襲来に対応できた

文永の役の時は、たまたま敵将を射落としたわけですが結果としてこれが元軍撤退の決定打になりました。

弘安の役の時は、用意周到に準備をしていたことも大きな要因でした。

蒙古襲来で活躍したのは、もちろん北条時宗はじめ武家たちでした。しかし、朝廷は自分たちがお祈りしたおかげだという意識があったため、武家たちへの評価は非常に低いものでした。

防衛戦争というのは戦利品がないため、報奨を与えようにも与えられないという事情もあったのでしょう。

蒙古襲来を見事防いだ北条時宗は、34歳の若さで病死してしまいます。

まさに、「元寇から日本を守るために生まれてきたような武将であった」と渡部氏は評価しています。

所感

靖国神社の遊就館に、蒙古襲来のときを描いた絵画が展示されています。

元軍の船は大きく、日本の船は小さなものでした。そして勢力的にも圧倒的に元軍のほうが多勢でした。

そんな不利な状況でも日本を守るために果敢に戦った武将たちが、当時はあまり評価されていないと知ってなんだか不憫に感じました。

また、北条時宗という人物が大きな役割を果たしていたなんて知りませんでした。歴史を学ぶって面白いですね!

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