この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第2章 中世篇
御成敗式目制定
(1232年/貞永元年)
です。
要点
- 従来の慣習を北条泰時が成文化
- 武家の規範として明治維新まで続いた
- 「漢字」としての律令、「仮名」としての式目
解説
御成敗式目は、鎌倉幕府執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)が貞永元年(1232年)に制定した法令のことです。
当時、公家には政治制度を明記した律令がありました。しかし武家を対象とした法令がありませんでした。
そのため式目制定以前は、何か問題が起こるたびに源頼朝自身が慣習をもとに判断していました。そういった頼朝以来の先例や、武家社会の道徳や慣習をもとに成文化したものが御成敗式目です。
51か条のシンプルなものでしたが、当時の武士たちにとっては納得感のある内容であったため、多少微修正を加えながら明治維新のころまで効力を発揮していました。
御成敗式目を制定したあとも鎌倉幕府は、それまでの律令を廃止しようとはしませんでした。泰時は制定時、律令は漢字のようなもので、式目は仮名のようなものであるから、式目ができたからといって律令が改まるわけではないと言明しています。
「どちらかに割り切らないで両方を立てておくというのは、神道と仏教並存以来の日本的アイデンティティである」と渡部氏は述べています。
所感
泰時がなぜ、わざわざ律令が改まるわけではないと言明したのかというと、ひとえに公家を立てるためでした。
官位や名目は律令の内容をそのまま残しつつ、武家を実質的に支配したのは式目のほうでした。
ちなみに今でも使われている「大臣」という名称は、8世紀初頭の律令にある名称の名残なんだそうです。