日本史 読書ノート

承久の乱/第三回目の「国体変化」ー変化すれども断絶せず

投稿日:

この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第2章 中世篇
承久の乱
(1221年/承久3年)
です。

要点

  • 後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げ敗れた戦い/li>
  • 承久の乱以降、皇位継承を幕府が管理することになった
  • 国体は変化すれども断絶せず

解説

承久(じょうきゅう)の乱とは、承泣3年(1221年)に、鎌倉幕府へ不満を抱いていた後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が討幕の兵を挙げて敗れた内乱です。

当時の鎌倉幕府は、執権・北条義時(ほうじょうよしとき)で、日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力闘争と言われています。

戦い自体は朝廷側が敗北。乱のあとの処理を行った北条泰時(ほうじょうやすとき)により、後鳥羽上皇らは島流しにされます。

これ以降、皇位継承は幕府が管理することになりました。幕府の将軍というのは武家のトップですが、位としては決して高くありません。これは非常に大きな変化であり、渡部氏は「第三回目の国体の変化だ」と評しています。

渡部氏はその著書の中でよく、日本はこれまでの歴史の中で5回、国体の変化が起こったと述べています。

ここで、その5回の変化を紹介します。

第1回目は、第31代用明(ようめい)天皇が仏教に帰依したとき。神道の代表者である天皇自ら新たな宗教を受け入れました。

第2回目は、源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉幕府を開いたとき。宮廷と関係なく武力で天下を征服し、政治の根本原理が変わりました。

第3回目が今回の記事で解説した承久の乱のときです。先にも述べたとおり、承久の乱以降皇位継承が宮廷ではなく幕府が決定することになります。

第4回目は、明治憲法発布のとき。

第5回目は先の大戦の敗戦による占領憲法(現在の日本国憲法)の制定のときです。

日本の国体とは一言で言うと皇室、皇統のことです。

国体はこれまで5回、大きく変化しました。しかし、一度たりとも途切れることはなかったのが日本の国体の最大の特徴なのです。

所感

「国体」というと、今の日本では「日本国民体育大会」のほうを連想してしまうかと思いますが、もともとは国の体質、国のあり方を意味した言葉です。

そして先の大戦のとき、この「国体護持」がポツダム宣言受諾の最大の焦点となりました。それはまた別の機会に解説したいと思います。

承久の乱のときに話を戻すと、泰時は天皇が自ら塀を引きた場合の対処を義時に尋ねたんだそうです。そのとき義時は、「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言います。

乱を制圧したあとの処置も、処刑するようなことはもちろんせず、島流しとしています。

それほど皇室というのは日本人にとって不可侵な存在であり、日本の歴史そのものといった存在なのだと感じます。

-日本史, 読書ノート
-, ,

Copyright© 2045プロジェクトブログ , 2024 All Rights Reserved.