この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。
今回は
第2章 中世篇
源氏政権の終焉
(1219年/承久元年)
です。
要点
- 源義経は宮廷で非常に人気があり、後白河法皇より判官の位を与えられる
- 義経は頼朝に警戒され、奥州藤原氏の元へ身を寄せる
- 頼朝は親類縁者をことごとく滅ぼした結果、30年足らずで北条家に実権を奪われてしまう
解説
日本史上、初めて武家政権を樹立した源頼朝でしたが、源氏の時代はそう長くは続きませんでした。
なぜなら、自身の地位を脅かす可能性のある人物をことごとく皆殺しにしてしまったため、跡取りの男系子息が途絶えてしまったのです。
例えば、源平合戦第一の功労者である源義経は、その活躍ぶりにより宮廷でも人気が高かったようです。そして後白河法皇から従五位下(じゅうごいげ)という位を授かります。
義経としては、貰えるものならもらっておこう、という程度の考えだったようですが、このことに対し頼朝は怒り、都から凱旋した義経を鎌倉へ入れようとしませんでした。
仕方がないので義経は奥州藤原氏の三代目当主、藤原秀衡(ひでひら)を頼って身を寄せることになります。
しかしその後、奥州藤原氏は頼朝に征伐されてしまいます。
その他、頼朝は義経以外の兄弟や親類をことごとく殺しています。
二代目将軍は頼朝の嫡男の頼家(よりいえ)がつきましたが、頼家の妻の実家の比企(ひさ)家と、母(つまり頼朝の妻)である政子の実家である法条件の争いに巻き込まれ、北条氏に殺されてしまいます。
三代目将軍は弟の実朝(さねとも)はじめ、頼朝の男系はみな非業の最期をとげ、血統は途絶えてしまいました。
その後の鎌倉幕府は、北条家が執権として支配することになります。
所感
鎌倉幕府というと源氏の政権だという印象がありましたが、実際には3代で潰え、頼朝の妻政子の実家である北条家が実権を握り、その後150年ほど続きます。
そのため鎌倉幕府の実態は北条政権であったといえるでしょう。