日本史 読書ノート

平家滅亡/義経「英雄譚」のクライマックスに演じられた悲劇

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第2章 中世篇
平家滅亡
(1185年/寿永4年、元暦2年)
です。

要点

  • 義仲による「伽羅倶梨峠の戦い」
  • 義経の「一ノ谷の戦い」と「壇ノ浦の戦い」
  • 安徳天皇入水

解説

平家は、源氏との戦いに敗れ寿永(じゅえい)4年(1185年)に亡びました。

源氏と平氏の戦い、いわゆる源平合戦の主役はなんと言っても源義経(みなもとのよしつね)です。

主要な戦いの経緯を、順を追って

源頼朝の従弟にあたる源義仲(みなもとのよしなか)が、頼朝に代わって京へ攻め込んだのが寿永2年(1183年)です。義仲が数百の牛の角に松明をつけて敵陣を奇襲した「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」が有名です。

この戦いを機に平家は京都から"都落ち"し、三種の神器とともに最終的には九州筑前まで退避していきます。

その勢いをみて、平家に対しよく思っていなかった後白河天皇が、義仲に平家追討の宣旨(せんじ)を下します。これをもって官軍の立場が逆転します。日本の戦いにおいて官軍かどうか、「錦の御旗」を掲げているかどうかは非常に重要な意味を持ちます。

しかし、京に入った義仲軍と法皇の関係は悪化(義仲の狼藉が原因)、すると法皇はなんと今度は頼朝に義仲討伐を命じます。頼朝は京へ上る機会を伺っていたのでこれ幸いと、弟の範頼(のりより)と義経に義仲討伐を命じ、結果として義仲は討ち取られます。

一旦都落ちした平家でしたが、徐々にその勢力を回復し、ついには京都奪還を狙うまでになっていました。

ここからが、義経の英雄譚の始まりです。

平家は、一の谷の砦に陣を構えていました。断崖絶壁を背後に布陣した平家は自信満々でした。

その平家に対し、源氏軍側は範頼が正面から攻め、義経はわずか70騎の兵のみを率いて、断崖絶壁を馬で駆け下り平家軍を壊乱しました。これが有名な「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし)です。まさか断崖絶壁側から攻撃されるなどとは思いもよらなかった平家は混乱し敗れました。

その後、戦いの舞台は屋島・壇ノ浦へ移ります。ここでの義経の活躍も凄まじいものがありました。

関門海峡の壇ノ浦での戦いは海戦で、平家の水軍は海戦が得意でした。そのため当初は、潮の速さをうまく利用したこともあり平家が圧倒的に有利な状況でした。しかし、潮の流れが変わり、形勢も逆転、源氏側が優勢となります。

壇ノ浦の戦いでは「義経の八艘飛び(はっそうとび)」が有名ですね。これは、平家随一の猛将といわれた平教経(たいらののりつね)が、義経の船に飛び移ってきたところを義経は身軽にかわし、船から船へと飛び移って逃げた逸話です。

壇ノ浦の戦いで平家は亡びました。

その際、数えで6歳だった安徳(あんとく)天皇が、祖母である二位尼(にいのあま)に抱かれ入水(じゅすい、水中に身を投げ自殺すること)されました。二位尼は平清盛の正室だった女性です。この時三種の神器も海中に没しましたが、八咫の鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は無事回収されました。残念ながら草薙の剣(くさなぎのけん)だけはついに見つかりませんでした。ただ、この件は形代(かたしろ)という、いわゆるレプリカみたいなもので、本物は熱田神宮にあって無事です。

所感

義経の凄さは、常識に捕らわれず、むしろその逆を突くような戦術を柔軟に発想できた点にあります。また古今東西、戦いの王道は圧倒的多数の勢力を擁して相手を挫くことです。明治維新時に新政府軍が勝利できたのも、先の大戦で日本がアメリカに敗れた一因も、圧倒的な物量の差によるものでした。

であるからこそ、義経の戦いぶりはより一層鮮やかで、日本人にとっていつの時代も人気が高い存在なのでしょうね。

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