日本史 読書ノート

平清盛が太政大臣となる/平家の栄華を築いたのは清盛にまつわる"噂"だった

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第2章 中世篇
平清盛が太政大臣となる
(1167年/仁安2年)
です。

要点

  • 平治の乱後、平清盛は武士として初めて太政大臣となった
  • 清盛には当時、天皇のご落胤という噂があった
  • 「平家に非ざれば人に非ず」というほど平氏隆盛の時代

解説

太政大臣とは、朝廷の最高職であり、それまで武士がなることはありませんでした。というのも当時の武士は、宮廷にとってはガードマンといった程度の認識だったので、そんな武士が朝廷トップの役職に就くなどはあり得なかったのです。

清盛は、皇室の後継者争いである保元の乱、平治の乱で頭角を現した人物です。では武力をもって力ずくに太政大臣になったのかというとそうではありません。

清盛は当時、天皇のご落胤という噂がありました。祇園女御(ぎおんにょご)という、白河天皇の寵姫が生んだ子供だというものです。その真偽はさておき、当時はそういう話になっていたので、清盛の栄達を周りも止めることができなかったと言われています。

そして清盛は天皇家と姻戚関係になり、どんどん公家化していきました。

平清盛の継室である平時子の弟、平時忠(たいらのときただ)が言った「平家に非ざれば人に非ず」は、当時平氏の影響力の凄さ、あるいは増長ぶりが鮮明に伝わってきます。

所感

秀吉も、平清盛を真似して自身を天皇のご落胤であると吹聴していました。それくらい、日本の権力者にとって天皇という、誰もが納得するお墨付きを与える権威の存在は必要不可欠であり、取って代わることができないという意味において不可侵だったんですね。

そして、平家でなければ人ではないというほどの栄華を謳歌した平氏ですが、長くは続かず源頼朝に滅ぼされてしまいます。

その様子を謳った平家物語の冒頭は、世の真理をついているし言葉のリズムもよい名文ですね。

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす
奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし
猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風 の前の塵に同じ

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