日本史 読書ノート

壬申の乱/天智天皇直系の相続を阻んだ古代最大の戦乱

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この記事は、渡部昇一著『読む年表 日本の歴史』の読書ノートです。

今回は
第1章 古代篇
壬申の乱
(672年)
です。

要点

  • 天武天皇による古代史上最大の内乱
  • 背景には、公地公民制への豪族たちの不満があった
  • 天武天皇は、仏教も神道もともに振興した

解説

壬申の乱とは、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)が、天智天皇死後の皇位継承をめぐり天智天皇の息子である大友皇子(おおとものおうじ、弘文天皇)と争った、古代最大の内乱です。

当時の皇位継承は、親子よりも兄弟が優先されていました。そのため大海人皇子は、天智天皇の後は当然自分だと考えていました。しかし天智天皇はそれまでの慣習を破り、自分の息子を皇太子として跡を継がせようとしました。

天智天皇の即位前の名前は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。そう、大化の改新の中心人物の一人です。大化の改新では唐の律令制度を日本へ導入しました。相続の制度も唐では兄弟より嫡子のほうが優先とされていて、この制度にならったものだと考えられます。

さらに、大化の改新では公地公民制を導入しましたが、これは豪族たちがそれまで所有していた土地を一旦天皇のものにして分け与えるというものです。当然、取り上げられた側の豪族たちには不満がたまります。

そうした豪族たちを味方につけ、大海人皇子は挙兵し、朝廷軍は大敗を喫します。結果、弘文天皇は自害してしまいます。

皇位を奪った天武天皇ですが、即位後は仏教と神道を平等に扱っている点を渡部氏は評価しています。

家ごとに仏壇をつくって仏像を拝むように命じたりしたかと思えば、全国の神社の修理を命じたりもしています。さらには685年に、現代でも続いている伊勢神宮の式年遷宮(20年ごとに、定期的に神宮を立て直すこと)を決定したのも天武天皇です。

所感

最近では少なくなりましたが、外国人(主に一神教の人たち)の多くは日本の宗教に対する無節操さが理解できず、批判的でした。

しかし、この日本人のメンタリティは天武天皇の時代にもみることができます。八百万神を信じる日本人らしい姿だと思います。

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